今回の問題について私がほんっとうにイヤだなと思うのは、こういうのの背景にはさっき「一部の東京の小劇場にある嫌な自意識」と言ったもの、なんというか舞台と客との間にある権力関係に無自覚なまんま、観客を「啓蒙」したり「教育」したり「新しいものに触れさせ」たりするつもりで一見面白いかもしんないけど実はすごいパターナリスティックな態度で舞台作りをしている精神、がある気がするからである。舞台と客という権力関係に根ざした舞台という環境があるからこそ、客に性的な暴力をふるってそれは犯罪ではない、パフォーマンスだ、と正当化できるんだろうと思うし、たぶんこの問題を起こしたパフォーマーたちやパフォーマーが好き勝手することを擁護する人たちは、この舞台が客を一方的に圧倒する権力関係を無意識に是認しているように思う。これはいい演劇とか悪い演劇という問題じゃなく、ただの犯罪の話だ、という人もいるようだけれど、こういう環境を創り出しているパフォーマーの意識自体を問題にしないと根本的な解決にはならないんじゃないのかな?
ついこの間、散歩がてら紀伊国屋書店に行ったら、押井守さんが「人はつぶやくたびにバカになる」というもの凄いタイトルの著作を発表しており、まあ「バカになる」とまでは言いませんが、批評、自己顕示欲、自己否定、自己満足といった、攻撃性昇華システムを手のひらの中に収めて一日中操作出来る。等という強いドラッグを打たれれば、誰だってジャンキー化させられざるを得ず&ジャンキーは、内的には賢者と幼児に引き裂かれますので、勢い我が国は、バカで洒落た、トロい大人がいなくなり、(まんまと、飼いならされた)賢者と幼児ばかりの国となり、イコール導かれるのはファシズム待望。今は正にガス充満中、着火さえすればファシズムが爆発するガス臭い風向き、しかし20世紀的な戦争が出来ない事とリンク、ファシズムもまた、20世紀的なものは、おそらく起こりえず、勢いアルターファシズムがそこかしこで群発と失敗の往復を量産し、要するに長々と書きましたが結局「クラブ狩りなんかあって当然じゃん今。無い方がおかしいわ」としか言いようがありません。
あと、人間はコンテンツじゃない。 コンテンツじゃない、というか、無闇にコンテンツにしてはいけない、と思う。一部を切売するのはいいんだ。もしそれが否定されてもそのひとは否定されないから。そのひと全てをコンテンツにしちゃうと、衆目に晒され不慮に攻撃された時、そのひと自体がダメージを背負ってしまう。「自分が否定された」と強く感じてしまう。そしてそれが一生ネットの海に残る。そういった状況に耐えられたり、長い目で見てもうまく利用できるひとはしてもいいと思うんだけれど。
おそらく普通に婚姻関係のある男女でも、妻が夫に「冷凍庫に入れたほうがいいとアドバイスしたはずの食パンが冷蔵庫に入っていた」のを見たとき、そしてそれが繰り返されたとき、夫は妻の目から遠い他者に移されていく。
 他者というのはそういうものであり、そうなることを愛情といったものが押しとどめることはできない。そうであれば、木嶋被告は、普通に生きていたというだけではないのか。
本作品は、そうした「もう時代劇が作れないかも知れない」という主演俳優の危機感と念願の題材を与えられた監督の情熱が作品に緊張感を与え、のちに「映画史に残る」とも絶賛される名作となった[
別の言い方をすると、「橋下徹」を「全体主義者みたいな言論を出す」発狂トリガーのキーワードとして遊ぶというのが、極めて偏向した政治的な立場じゃないですか、それを明確にしてないならひどい話じゃありませんかね、と思う。
 もともと文学においては、メタフィクションはこんなに手軽に扱えるものではなかった。メタフィクションを手がけてきた小説家を挙げると……『ドン・キホーテ』のセルバンテス。『トリストラム・シャンディ』のスターン。『運命論者ジャックとその主人』のディドロ。『衣服哲学』のカーライル。  このように具体的に挙げてみるとわかるのだが、いずれも重厚で、むしろ冗長とすら言える作品でもある。そして、それを書いているのは、いずれも、百年に一度出るか出ないかといった規模の天才ばかりである。  まず、ある一つのメカニズムで動く人つの現実の階層がある。そして、その現実自体を、一つの虚構として内包し、別のメカニズムで動く別の現実の階層がある。このようにして、少なくとも二つの異なる水準の現実について、全く異なる世界として書きわけることができなければ、メタフィクションを扱うことはできなかったわけだ。  では、なぜ、メタフィクションは手軽に誰でも扱えるようなものになってしまったのか。  ボルヘスが悪かった、というのが私の考えだ。
文学は、当たり前のことではあるが、その素材のすべてが言語でできている。そこでボルヘスがやったのが、複雑で冗長に入り組んだ語りを持つメタフィクションから細部を抜き取り、奇妙な構造だけを抽出し、それだけを作品として提示してみせた。  要するに、奇妙で複雑な構造の完成品とその設計図を比較してみれば、設計図だけを見ても面白いよね、というのがボルヘスのやったことだ。文学作品の場合、完成品も設計図もどちらも言語だけでできているのだからなおさらである。  ただし、ボルヘスは自分のやっていることがわかっているので、短い作品しか書かなかった。細部を省略して構造が剥き出しのままの作品を書いているのだから当然である。  ところが、ボルヘスの短編を読み、これで小説が書けると思いこむ層が出てきてしまった。ボルヘスの作品は細部を省略したから短いのに、それをそのまま引き延ばしたのである。これでは読むに耐えない。  ぶっちゃけた話、ボルヘス以前のメタフィクションを参照せずに、ボルヘスだけを読んでメタフィクションを書いている小説家の作品は全て論外である(そう言えば、ボルヘスが様々なメタフィクションの技法を開発したのだなどという摩訶不思議な主張をしている、自称「文芸批評家」がいたなあ……)。ついでに言うと、荘子の「胡蝶の夢」が欧米に広まったのも、ボルヘスの紹介によるところが大きいのではないだろうか。
を、最初に、なおかつ最も優れた形で処理したのはゴダールである。  ごくごく一般的な先入観として、貧しい人間とは、ぼろぼろになったりくすんだりした衣服を身にまとうものだと思われる。しかし、資本主義がある程度発達した社会においては、最も安価なのは、単純な原色がむき出しとなった平板な衣服であることは、よくよく考えてみれば当たり前のことだ。  ぼろぼろのくすんだ衣服に身を包んだ人間と、原色まみれの衣服に身を包んだ人間。映画によって美的に表象することが容易なのは、疑いもなく前者である。しかし、現在の労働者階級が置かれた貧しい状況が何であるのかを理解しようと努め、その表象に取り組む者は、容易に画面にできない後者のような対象の処理に立ち向かわなければならないはずだ。
――早速ですが遠藤保仁のプレーを見て、「おもしろい」と感じるのはどんなところですか?  3つあります。まず1つ目は、圧倒的に技術が高いところ。遠藤はどんな状況に置かれても「ボールを扱う技術」がブレない。決して派手な技術ではないんですが、本当にいろんなものが正確。  2つ目はひょっとしたら本人は無意識でやっているかもしれないけれど、メンタルのコントロールができていること。技術というのは日によって波があるんですが、遠藤はうまく対処できる。これをわたしは「自分の心を扱う技術」と呼んでいます。  そして3つ目は、これが遠藤の最も突出している能力だと思いますが、「敵を扱う技術」が優れている。敵をよく見てプレーしているから、常に安定したパフォーマンスをできるし、効果的なプレーをできる。たとえば、「今日は自分が出て行く必要がないな」と思ったらほどほどにやっておくし、「おれが行かないとダメだな」って思うと積極的にゴール前に顔を出す。敵を操れるという意味では、真のチームの司令塔。日本サッカーにも昔はたくさんいたと思うんですが、だんだん減ってきたタイプの1人。絶滅種に近いMFですね。